昭和48年12月06日 朝の御理解
御理解 第4節
「此方金光大神あって、天地金乃神のおかげを受けられるようになった。此方金光大神あって、神は世に出たのである。神からも氏子からも両方からの恩人は、此方金光大神である。金光大神の言うことにそむかぬよう、よく守って信心せよ。まさかの折りには、天地金乃神と言うにおよばぬ。金光大神、助けてくれと言えば、おかげを授けてやる。」
まさかの折りには天地金乃神と言うに及ばぬ。金光大神助けてくれと言えば、助けてやる。私共はまさかではない時に、金光様助けて下さいばっかり言いよるとじゃないだろうか。まさかの時に言えばやっぱりまさかの時なんだ。所が私共はあの言うなら何と言うか、日の内に何回もその、まさかの時に様に金光様と言っている事はないだろうか これはまさかの折りにですだから本当にまさかの時に、生神金光大神が出なきゃならんのに、まさかの時には金光大神が出らんで、うろたえている事はないだろうか。
まさかの折りこそ生神金光大神ではなからねばならない。まさかでない時に、生神金光大神助けてくればかり言っておるから助からん。そしていよいよまさかの時には、金光様のこの字も言わずにうろたえておると言う様な事はないだろうか。それは成程日々本当に心の底から金光様と称えなければ、おられんのだ。ない事ばっかりだ実は、というたらね、けど私はまさかの事じゃないと思うよ。
そこでです、金光大神の言う事にそむかぬよう、よく守ってと言う所が、私はこの御理解の一番の中心にならなければならん所だと思うですね。金光大神の言う事にそむかぬようよく守って信心せよ。御教えをどれだけほほで私共が本気で頂いておるか、毎日お参りをして、御理解を頂いて、その御理解をいうなら一日の生活の中に、どれだけ頂いておるか。それが金光大神の言う事にそむかぬ事なんだ。
だから力も出来るし、心も豊かになれれるし、いやいや金光大神の言う事、教えられる事を聞いておったらね、とにかく改まらねばおられん。研かねばおられない、本心の玉を研く。日々の改まりが第一と仰るその、第一のところに取り組まねばおられない。それが金光大神の言う事にそむかぬようにと言う事。金光大神の言う事には、そむいとるとは思わないでも、言う事は聞きよらんという感じがするね。
金光様の仰ることはそげな事は出来んというて、抵抗したり反抗したりはしとらんけれども、かというてなら、言う事は聞いとらんと言う事。だから力がない、いよいよまさかの時にいわゆる生神金光大神様が出てこない。まさかの折りにみ人に頼り、物に頼り又は、あっちへ行ったり、こっちへ行ったりとうろたえて来たというばかりではなかろうかと思う。そのまさかの時にこそです、生神金光大神が出てくる、そのね、おかげを頂くとか力を頂くとか、そういつもかつもあるもんじゃない。
いうならまさかの時なんだ、いうなら非常時の時なんだ。普通の時ではない。昨日壮年部会で、喜代司さんが面白い事を言ってました。合楽と言う事は共に楽しむ事だとこう言っている。神様と人間氏子が共に、あいよかけよと言う事は、そういう意味だとこう言っている。だから人がね、人という字がこうやって支えあっている。だからこれは時には反対になる事もある。
入るという字になるね、反対は入になったり人になったり、これがまあ、あいよかけよだと、神様に頼まんならん時もありゃ、神様がまた氏子に頼みなさらにゃならん事もある。人間同志でもそうでしょう。いわゆる頼み頼まれてと言う事になる。そう言う様なその過程に於いてです、とにかく信心辛抱する事が一番大事だ、というこう言っとる。その人という字に、こう一の字をこうやって引いたら、大の字になる。いわゆる大みかげを受けるということ。
常日頃の信心が、いうなら頼み頼まれる、そういうあり方然もそれはです、なら容易い事とは思われん。やはり日のうちにも何回も金光様と称えなければ、こられない辛抱出来ない事もあると言う事。その辛抱がこう入るから大の字になるんだというんですね。この人はやはり自分の信心体験から、そう言っているんです。いろんな兄弟共同して仕事をしてますから、弟さんはあんりに言うなら、それこそま気の利いた人ですから、兄さんんの喜代司さんのする事にまどろしさを感ずる。
もう、そげなこと言うてと言うけれども、そう言う事がいつもあるけれどもです、又自分が分が悪い思いをすることもあるけれども、そこを辛抱する。そこを例えば只辛抱だけ、只辛抱というてその、泣く泣く辛抱と言った様な事ではいけない。それを楽しゅう辛抱するということが合楽だと言ってますね。私はそれを聞いてから成程そだな、これなら徳を受けると思うた。
泣く泣く辛抱して行って、おかげを受けたというなら、それをおかげを受けただけなんだ。例えば、私共がまぁある意味では、泣く泣く辛抱せねばならない様な事に直面しとる時こそ、天地の親神様のいうならば、願いが氏子の上に成就しとる時なんですからね。神の願いが私共の上に現れて下さってある時なんです。いうなら神愛なんだ。だから私共が泣きの涙でおると言ょたような時に、なら神様はそれを楽しんでござるかもしれない。いや楽しんでござると私は思う。
それを、だからて泣く泣く辛抱するのでなくて、神様と共に楽しむ、いやここんところを乗り越えたらどげなおかげを受けるじゃろうかと思うて、しれっと笑いたいようなものが生まれてくるのだ。そこに楽しいという事がある。それが合楽だとこういう、神様は楽しんだござるのに、人間は悲しんどる。人間は有頂天になって楽しんどるけれども、神様は苦い顔をしててござる。これでは合楽にはならんちゅうこと。
私は今朝から、面白いお夢を頂いた。それはその桃太郎さんです、桃太郎さんがこう何と言いますかね、鎧のごとあるとを着て、そののっし、のっしと歩いているのです。道を。それが何と私はですよ。桃太郎さんが、あぁもう恰幅のよい桃太郎さん、そして一寸こう見て見ると、それこそ後ろの方へそれこそ金銀、珊瑚、綾錦を積んだ車がある。その傍に、犬、猿、雉がですね、猿はその何ちゅうですか、引き手のところをこうやって座ってる。内に入っとらん。
雉は向こうの方へ飛んで行っとる。犬はどこかあられぬところども見ていると言った感じなんです。私はこの事を頂いてね、昨夜、信徒会長がね、こんな事を言っとります。親先生が最近もう、親教会の御造営の事も一生懸命、誰が何と言うても、私だけでもやると言われる。五年か十年かかってでも、一つこれだけは成就せにゃと言うておられる。だから親先生があげん言いよんなさるけん、協力せにゃいかんと思いよるばってんどう思うても、協力する気が起こらないとこういうわけなんです。
たまにはね、御神前に向かって和賀心が、いわゆる神様にいよいよ向こうておる時、親先生に自分ね心が向かっておる時には、これは例えどういう、例えばその、まぁ過去があったにしてもです、これは奉賛さしてもらわねば、親先生の信心に言うならば、歩調を合わせて行かねばと思うけれども、いよいよになってくると、もうそれこそ崩れてしまう。その考え方は それは私はそれでもよい、誰も私についてくる事はいらん、私一人でもやるというのが、この私のこの生き方だった。
これは自分にしても、これは一寸人情だなと最近思う節ぶしがあるんです。人間心じゃいかん。けれども、これだけ神様は撓げてでもおかげ下さいというものがあるわけです。 金光様の御信心は、もうどこまでも、それこそ四季の移り変わりは人の力に及ばぬことぞ時節を待つと言う事。時節を待っておかげを受けと仰る。その合楽の信心の信条というならば、この時節待つと言う事なんだ。
大体二十数年間、私共がそこに焦点を置いてきたと言うもよい。それを、いわゆるその時、その時の時点を大事にして行く。成り行きをいよいよ尊ばせて、合掌して受けて行こうというのが、いうなら、合楽の信心というてもよいくらいなんです。その事柄に、御の字をつけて神様の御働きとして、御事柄としてその事を受けて行こうと、こう言うのである。時節、成り行きを大事に尊ばせて頂くと言う事。
その間に例えば人が謗(そしる)らば謗れ。笑うなら笑え。いや自分がその為に、そんな思いをせなければならん事に出会ってもです、そこを大事に頂いて行くと言う事を、合楽ではいうなら、二十何年間、皆さん稽古してきたわけなんです。それに今度その、親教会の御造営の事に限ってだけは私が、がむしゃらになっていると言う所がある。どうも九州の信心にはそう言う所がある。あります。
もう桂先生の御信心そのものにそれがある。前には進んでも後には退らんと言った様な、不退転の信心、素晴らしいことだと思っていた私も。ところが今日は、私は改めてわからせて頂いた。今日は私は、御霊様に御挨拶申しあげる時に、桂先生の御霊様にその事を申し上げた。親先生、あなたの信心の素晴らしいと思うておった事を、それこそこと神様ごとなら、前には進んでも後には下がらんという不退転の生き方を、私共にもそれを身につけさせて下さいという願いを持っておった。
所がどうも考えててみますとですそれは間違いの様にございます。そしたらね御心眼にね、あの死ぬ時に三角巾ばはめるでしょう、こうやってあれを頂くとですよ。桂松平これは一生の不覚であったと言う事なのです。これは本当に間違っておった丸丸が会うとったというなら、三角は違うとったと言う意味なんです。いくら初代であろうが先代であろうが間違とるとこなら間違うとる、気がついたら改めていかにゃいけません。
それは何かもう絶対のもののようにです但し、教祖生神金光大神のこれは絶対のものなんだ。けれどもなら今日の場合私は、こういう言い方をするのは今日、初めてでした。そしたらね、神様からいろいろお知らせ頂きましたのに、例えばあの銃剣術をやりますね、昔は兵隊さんの銃剣術。又は剣道でもよい。又は女の薙刀でもよい。これはやあやあと言うて前へ進んで行く事では決してないと言う事なのである
そんな事をするから死地に陥ってしまうわけなんである。桂先生の生き方の中にそれがあったでしょう。御本部の御造営だってそうだった。それこそ馬車何十台というて買われた檜材が現地で燃えあがってしまったという事があった。それでもやっぱり押して行かにゃならん。大概の者はあれで挫折するところでしょうけどまたやる。だからその事によって、力はそれで受けられた、やっぱり。けれどもそれは、結果は本当でなかったと思われる事は、あの御本部の御炎上と言う事につながってきた。
只なら私がです、親教会にその生き方にして行こうとしておった時分に気がついておったです、これは前へ前へだけではいかん、いかんぞと後へ退る事も、前へ進む事の為の姿勢なんです。逃げとるとじゃないと言う事。もっとよりもっと前進する事の為の、後へ退るのであって、いわゆるああこの事が合楽の今迄の生き方なら、こりゃ教会の事だってやっぱりそうだなあと思いました。いくら親教会の事であってもです。
只前進、前進で誰がついてこなかっても、私だけでもやると言った様な、いわゆるがむしゃらな生き方は、桂先生の生き方の中にそれがあった。いうなら、猪武者的信心です。これは二十何年間、私はそれを有難いと思うて頂いてきた。そしたら桂先生の御霊様もやっぱりです、そこんとこは私の生き方が間違っとったばい、大坪さん、あんたが言うとの方が本当ばいと言うて下さるような思いがしたです。
今日は、そうでしょうもん、私が桃太郎さんがなら前進していきよっても、第一犬あなた、猿雉であるところの皆さんがね、ついてこなかったら出来ないのです。どんなに金銀、珊瑚、綾錦というものがそこにあっても、それを引っ張って来てもらはなければ、お役にたってないんだもの。それが猿がその引手のところに座っているのは、まあ引かじゃこてと思いよるとこと思うたんです。
これが引くごとなるまで、皆が引いたり押したりする所まで、私は待たとうと思わして頂いた。だから皆さんそこんところをやっぱり自覚しなければいけません。御信者も信徒会長はそげん言うとる、夕うべもう、親先生の言われる事に本当に共鳴しなければいけない、それについて行かなければいけない。言うたり思うたりしている。自分でけれどもいよいよになると、いわゆる引っ張ろうと言う所まで行ってないと言う所にです、ああこれは時節を待たねばいけないなと言う様な所を、まあ私は感じた。
いわゆる、金光大神のいう事にそむかぬようにとその様な事頂いているにもかかわらず、事が事だけに止むにやまれん自分も人情ばかりでです、金光大神の言う事にそむいて、時節を待たずにがんばろう、自分の我力で行こうとしておったところに、間違いがあったと今日は私は、ここんところをそういうふうに今日は頂かして頂いたね、金光大神のいう事にそむかぬと言う事に、その辛抱して行く内に、徳を受けるのだとね、合楽と言う事は、神様と共に楽しめれると言う事が合楽だ。
それにをならちらだけが悦に入っておって、神様だけが苦い思いをしてござる。まあ、そげん慌てるな、まだ時節があるがと言ってござるのに、こちらだけが先に行っておる。金銀、珊瑚、綾錦は向こうに止まっていると言う事になっている。だからいうならばその犬、猿、雉がいよいよ舵を上げるというか、引いたり押したりするようになって、その先頭にたって、桃太郎さんが進んで行く時に、事は絶対の成就となるのを同時に、神様の願いが成就する事であり、大坪総一郎の願いが成就する事にもなるのである。
そういうおかげでなければいけないと言う事。今日、私は桂先生のいわゆる不退転の信心といわれる事は、こと神様の事なら前には進んでも、後には退りませんという、この生き方はです、場合によっては、後に退らねばいけない それは卑怯なとか、只信心からはなれると言う事じゃない。そういえば、甘木の初代なんかの御建築の時なんかの始った時ですね、何回も何回も途中で止めると言うておられますもんね。いわゆる後に退んておられるわけです。私し後でもそうでしたよ。
ここの御造営が出来る時に、いろいろな問題が起きてきた。そんならいっときばかり止めときなさいと私が、これは自分でも気がつかなかったままに退っとったと気がついた。その下がったという事が、次の勢いが出る事になって事が成就した。それをそげなことがあるもんかい、やんなさい、やんなさい。誰が何というてもやりぬきなさいというとったら、そこに故障が起っとったと思うです。桂先生の御信心なそこんのところが、もう例えばそれが何十台の資材がそん時のはもう御扉なんかあったんです。
もう又とないと言う様な素晴らしい檜のお扉が寸尺合わせて切ったのがあった。それが焼けた駅で。そういう時にです一寸踏み止まって、ああこれは一寸おかしいぞ。これは神様の御神意をたいしたということでなくて、事神様の事だから、例えそういう事があっても、前進、前進、前進以外にない進まれたところに、私は結果がああいう結果になったと言う風に思うんです。
そしたらそれが今日私が、お知らせ頂きますように、それをいうならば、言葉でいうならばですよ、それは私が心の中に感じた、それは桂先生の御声で聞くような思いであった。大坪さんこれだけは私の本当の一生の不覚じゃったばいと、仰る様な気がしたんです。前進すると言う事は場合には退くこともあるんだと、それはより前進のスム-ズさを頂くことの為に後退するんだと。
私共がいろいろな事に直面した、それが人の事ならわかるけど、こと自分のその場合にはです、金光大神のいうてくださっておる事に、叛く様なとは思うてないながらも、そむいておった事に気がついた。あれ程時節に任せてとこうおっしゃるのに、祈りはどういう強い祈りは持っておってよいけれども、いわゆる神様が与えて下さる一つの、時期というものを失わないように、いつ時期がくるやらわからんその時に、それが受けて立てるだけの準備をしておく。
用意をしておくと言う事が、金光大神の言う事にそむかぬようにと言う事だと思うです。これだけは、どうでもこうでもと言う様なことであってはならぬ。どうでもこうでもお願いせねばならない様な時ほど、金光大神の言う事にそむかぬよう、まさかの時にうろたえんで済む様な、まさかの時にはもう、もう金だ物だに頼って仕舞う様な事でなくてです、まさかの時に生神金光大神、助けてくれと言えれるだけの信心を。
常日頃金光大神の教えを頂きそれを体して行く、守っていく生き方をしてとらないと、まさかの時に金光大神が出てこない。私共はそこんところ一遍一つ反省してみなければいけない。まさかの時じゃない時に、もう助けて下さいと言う事を言うとりゃせんだろうか。それは成程、今の一つの願いとかが一日の願いとか自分の欲望というもが、今そこで叶えられれば、如何にもよかろうごとあるけれども。
それは本当のおかげじゃないと言う事。その間こそいうならば、喜代司さんの言うじゃないですけれども、持つち持たれつしている人の上に、棒がいる時じゃないだろうか、辛抱がその辛抱も、只歯を食いしばっての辛抱ではなくて、楽しゅう辛抱さして頂くところにです、神も喜びじゃ、金光大神も喜びじゃ、氏子も喜べれるおかげになってくる。そのおかげが成就する時には、もうおかげだけではない。
もうお徳が受けられるという感じがする。血の涙を流すような程しに苦しい思いをする様な時でも唯辛抱で頂いたおかげは、只おかげだけ、その辛抱の時にです、本当の神愛を悟らせてもろうて、それこそ苦しゅうございますけれども有難いというね。ところを心に開かせて頂くことこそが、言うならばその難儀の中に、こういうのが楽しさの中に分って来るのじゃなかろうか。神様もそれを楽しんでござる。そこに合楽的いうならば、おかげを約束されるわけであります。
どうぞ。